1870(明治3)年「Plan of the settlement of YOKOHAMA(横浜居留地地図)」
1870(明治3)年「新鐫 横浜全図~随時改刻」
1870(明治3)年「横浜明細之全図」
1874(明治7)年「横浜実測図」
1882(明治15)年「横浜区」
1882(明治15)年「絵入名所 横浜新図」
1887(明治20)年「改良 横浜明細全図」
1891(明治24)年「横浜真景一覧図絵」
1893(明治26)年「新撰 横浜全図」
1901(明治34)年「拡張・改正 横浜市全図」
1906(明治39)年「横浜」
1911(明治44)年「実地踏査 横浜市全図」
1920(大正9)年「大正調査・番地入 横浜市全図」
1920(大正9)年「最近調査番地入 横浜新地図」
1921(大正10)年「横浜名所案内図絵~市街電車案内」
1922(大正11)年「横浜」
1923(大正12)年「横浜大地図~附大正十二年大震火災区域」
1929(昭和4)年「復興完成番地入 大横浜交通地図」
1930(昭和5)年「旧中区火災保険図 関内方面No.8」
1933(昭和8)年「根岸」
1936(昭和11)年「大日本職業別明細図 第481号 横浜市中区~附磯子区」
1938(昭和13)年「最新実測番地入 新大横浜市全図」
1946(昭和21)年「横浜市街図」
1948(昭和23)年「横浜」
1954(昭和29)年「横浜港隣接地帯接収現況図」
1957(昭和32)年「戸塚」
1963(昭和38)年「大横浜全図(中心部)」
1964(昭和39)年「番地入 横浜市街図・中心部」
1965(昭和40)年「横浜市区分図 南区詳細図」




"Plan of the Settlement of YOKOHAMA"(横浜居留地地図)1870(明治3)年
R.H.Brunton(R・H・ブランドン)作成。縮尺:1/2,400。
ブランドンは大火(1866年)で焼失した外国人居留地の改造を手がけたイギリス人技師である。本図はその計画にあたって作成された本格的な実測図である。居留地(左側)の建物の形状と配置を詳細に知ることができる。後に横浜公園が建設される土地の辺りはまだ更地のままである。




「横浜明細之全図」1870(明治3)年
橋本玉蘭斎(画)、師岡屋伊兵衛(発行)。
幕末の開港以来、横浜を描いた絵図・鳥瞰図はいくつも出版された。その代表として橋本玉蘭斎(五雲亭貞秀)の作品が上げられる。本図は明治時代に入ってすぐのものだが、地図の要素よりも絵の要素の方が強く、それ以前の江戸期に出された絵図類と変わらない。描かれているのは「Plan of the settlement of YOKOHAMA(横浜居留地地図)1870(明治3)年」および「新錆横浜全図~随時改刻1870(明治3)年」と同じ年の横浜である。




「新錆横浜全図~随時改刻」1870(明治3)年
五葉舎・万寿老人(尾崎冨五郎)製図。縮尺:約1/4,500(八分=一町)。
水面で囲まれた中央の埋立地が開港場で、市街地化か進んでいる。周囲の橋には関所が設けられ、その内側を「関内」と称した。黄色の部分が外国人居留地、茶色が日本人町である。上方の吉田新田はほとんどが水田や沼地のままである。一方、海上をショートカットして神奈川宿とを結ぶ弓状の埋立地は、工事中の鉄道用地である。




「横浜実測図」1874(明治7)~78(同11)年測量・81(同14)年発行
内務省地理局発行。縮尺:1/5,000。
明治政府が実測により作成した最初の横浜の地図である。地理局の実測図は、後年の陸地測量部の地形図と異なり、陸地の起伏は等高線ではなくケバ線で表現され、また土地の境界が示されている。5千分1実測図は横浜以外に東京(1886~88年測図)・大阪(1888年測図)・神戸(1881年測図)など、一部の都市で作成されただけである。




(迅速)2万分1地形図「横浜区」1882(明治15)年測量・91(同24)年更改出版
陸地測量部発行。
明治前期、政府(陸軍)はまず関東地方を網羅する応急の地形図(「第一軍管地方2万分1迅速測図」)を作成した。三角測量によるものではなく緯度・経度の表記はない。市町村制施行(1889年)以前の横浜区や神奈川駅(宿)の景観がよくわかる。




「絵入名所横浜新図」1882(明治15)年
歌川国鶴画・発行。
幕末より開港場横浜を描いた絵図類は多数出版されたが、明治時代に入ると縮尺と方位を示したものが見られるようになる。図中に船や樹木の絵が描かれるなど、まだ完全な地図とは呼べないが、加えて当時、盛んに作られたのは本図のように図の周囲に名所の挿絵を配したもので、名所絵入りの地図(絵地図)が大いにもてはやされたと言える。




「改良横浜明細全図」1887(明治20)年
尾崎冨五郎編集・発行。
尾崎冨五郎は明治時代、横浜の地図出版において最も活躍した人物と言える。彼の作成した「改正銅版横浜地図」(1880)年は 「絵入名所 横浜新図 1882(明治15)年」の基図とされ、また本図もたびたび再版され、多<の部数が印刷されたと思われる。なお、図中に絵的な要素は少なくなったが、周囲にはやはり名所の挿絵が配置されている。




「横浜真景一覧図絵」1891(明治24)年
尾崎冨五郎編集・発行。
上空の気球から真下を眺めたという設定の絵地図。1889(明治22)年に成立した横浜市域のほとんどが含まれ、当時の市街地の様子を一望できる。建物は石造とレンガ造・木造とで区別されていて、海岸や河川・運河に浮かぶ無数の小舟も注目される。なお本図は、横浜地図の出版で活躍した尾崎冨五郎の最後の作品である。




「新撰横浜全図」1893(明治26)年
倉田太一郎発行。
名所の挿絵が周囲に配置された、当時の定番の民間地図である。吉田新田(関外地区)の市街地化か進んでいるのがわかる。図の右の鉄道に注目すると、京浜聞か明治初期に開通し、その後、大阪方面へ延伸された。ただし、横浜駅(桜木町)付近の線路はY字型のルートになっている。東海道本線の列車は横浜で方向転換の不便を強いられた。




「拡張・改正横浜市全図」1901(明治34)年
遠藤測量事務所発行。縮尺:1/10,000。
横浜市はこの年、最初の市域拡張を実施し、神奈川町や本牧村、根岸村などを編入した。本図は拡張後に初めて作成された民間地図で、縮尺がスケールバーで明示されるようになり、また広い市域を覆うべく従来のものよりも小縮尺となった。完成した大さん橋や色分けされた各町々、神奈川と程ヶ谷の両駅を結ぶ鉄道短絡線(平沼線)などが注目される。




(正式)2万分1地形図「横浜」1906(明治39)年測図・08(同41)年発行
縮尺:1/20,000。
陸地測量部発行。20世紀に入ってから横浜の、三角測量にもとづく正式な2万分1地形図が作成された。本図から、「象の鼻」と呼ばれた波止場の先に建設されたさん橋、工事中の税関(新港)ふ頭や完成から間もない横浜船渠(ドック)の様子を読み取ることができる。




「実地踏査横浜市全図」1911(明治44)年
横浜測量協会(製図)、菅村孝三郎編集・発行。縮尺:1/15,000。
本図は二度目の市域拡張(1911年)の直前に作成されたもので、その結果は反映されていないが、最初の拡張(1901年)以来の交通機関・埋立地・道路などの変容を詳しく実地調査したとある。横浜駅(桜木町)を経由しない東海道本線、工事中の新港ふ頭、創業時の路面電車(横浜電気鉄道)の路線などが確認できる。




「最近調査番地入横浜新地図~町名いろは引早見」1920(大正9)年
荻田春風堂発行。1919(大正8)年初版・訂正補版。縮尺:1/15,000。
荻田春風堂は有隣堂とともに大正時代の横浜の定番となる都市地図を発行し、本図は改版を重ねた。明治時代の二度の拡張によって大きくなった市域のほぼ全体に、番地を示す数字が細かく振られている。表題の通り「番地入り」という文言が、この頃より地図販売の大きなセールスポイントとなったようである。




「大正調査・番地入横浜市全図」1920(大正9)年
有隣堂出版部発行。1913(大正2)年初版・訂正9版。縮尺:1/15,000。
横浜市域は大正時代を通じて変わらず、その間、有隣堂発行の「横浜市全図」が定番の都市地図として改版を重ねた。本図では、明治後期からの築港事業で整備された新港ふ頭、東海道本線の改良によりできた第二代横浜駅(高島町)や臨港貨物線、発足直後の横浜市電の線路などを見ることができる。




「横浜名所案内図絵~市街電車案内」1921(大正10)年
荻田春風堂発行。
同社は大正時代に数多<横浜の地図を出版した。本図は関東大震災で焦土となる直前の横浜の景観を描いた稀少な鳥瞰図。市営化直後の路面電車の線路と停留場が詳し<記されている。なお、現在の横浜駅付近には石油工場の建物がある。




(旧)1万分1地形図「横浜」1922(大正11)年測図・23(同12)年発行
陸地測量部発行。縮尺:1/10,000。
戦前の旧1万分1地形図は、主に大正期より京浜・京阪神・名古屋地区など大都市を対象に作成された。横浜を対象として初めて作られた本図は、関東大震災以前の様子を伝える稀少な大縮尺図と言える。震災復興事業による区画整理や街路拡幅以前の市街地の状況がよくわかる。




「横浜大地図~附大正十二年大震火災区域」1923(大正12)年
京浜出版社発行。縮尺:1/12,000。
大正期の典型的な横浜の都市地図を基図にして、焼失区域、亀裂・崩壊の生じた護岸や被災した橋リようの位置、がけ崩れの場所を示し、関東大震災の被害状況を正確に表現している。大正時代までに形成された市街地の過半が、地震後の火災によって壊滅的な被害を受けたことがわかる。




「復興完成番地入大横浜市交通地図(横浜支局新築落成記念)」1929(昭和4)年
『東京日日新聞』同年8月10日および9月10日付録。縮尺:1/20,000。
東京日日新聞社は現在の毎日新聞社で、新聞社が本紙の付録として作成した地図の一例である。昭和期に大き<拡張した横浜市域に対応するため2枚組とし、二回に分けて配布したようである。「交通地図」とある通り、道路の種別やバスの経路が示されている。また、新聞販売所の位置も忘れず記されている。




旧中区火災保険図「関内方面No.8」1930(昭和5)年
横浜新興地図協会発行。縮尺:1/1,000。
火災保険図は市街地の建物の保険料を算出するための資料として作成された、個々の土地と建物を記した大縮尺の地図。日本では東京・水戸・宇都宮などのものがあり、いずれも昭和前期に作成されている。横浜については、居留地の部分のみ19世紀に海外向けに出版されたが、市街地全体(旧中区)を対象とした国内用のものは近年、その存在が確認された。本図は計約800枚のうちの1枚で横浜公園・日本大通り付近(青焼き原図の白黒撮影)。




横浜市(旧)3千分1地形図「根岸」1933(昭和8)年測図・34(同9)年製版
表題:『横浜市区分地図南区~最新調査番地入』(国土開発図書・日本地図共販)。縮尺:1/15,500。
横浜市土本局発行。横浜市3千分1地形図は市域を対象に1931(昭和6)年から53(同28)年にわたって作成された。1938(同13)年まで測図が行われ(終戦後、一部再開)、それが実施されなかった地区については官製地形図を流用している(その場合は「仮製」の表記あリ)。また、1942(同17)年以前に製版されたものは3色刷リだったが、以後のものは戦後になっても1色刷りである。




「大日本職業別明細図・第481号横浜市中区~附磯子区」1936(昭和11)年
東京交通社発行。
同シリーズの横浜市中区版はまず1934(昭和9)年に、続いて磯子区を含めて翌々年に再び出版された。戦前より日本大通り・ 横浜公園付近には官公庁街が、本町通りや海岸通リには会社の事務所や銀行の集まるビジネス街が形成された。また、吉田橋をはさんで伊勢佐木町通りから馬車道には横浜随一の繁華街・中心商店街が連なっていた。




「最新実測番地入新大横浜市全図」1938(昭和13)年
秋山不二男著、日本地理附図研究所発行。1934(昭和9)年初版・訂正21版。縮尺:1/25,000。
日本地理附図研究所は横浜市内にあった地図会社で、横浜の他、横須賀・川崎・静岡等の都市地図を発行した。本図は好評を博して改版が重ねられ、1940(昭和15)年まで刊行が続いた。その間に地図の見やすさにも次第に改良が加えられ、当版では市区の 境界が非常にわかりやすくなっている。




「横浜市街図」1946(昭和21)年
日本地図株式会社発行。縮尺1/25,000。
同社は戦時中、国内の地図会社を経済統制により統合してできた。戦後も大手の地図出版社として存続する。本図は同社にとって最初の横浜の地図であると思われる。黄色の部分が戦災による焼失地域を示し、また戦災復興にともなう道路計画もここに示されている。




(旧)1万分1地形図「横浜」1948(昭和23)年修正測量・54(同29)年発行
地理調査所発行。3色刷り。
1万分1地形図は戦後、色数を増やして昭和30年代まで作成された。横浜市域の一部しか網羅していないが、市内の図幅(本図の他に「神奈川」「根岸」「本牧」等)は戦後すぐに修正が実施された。なお、1983(昭和58)年以降、図郭を変えて新版の1万分1地形図が全国の大都市部で作成されている。




「横浜港隣接地帯接収現況図」1954(昭和29)年
横浜市港都建設総合企画室発行。縮尺1/12,000。
戦後、横浜市内の中心部の土地や建物、臨海部の港湾施設は連合国軍(米軍)によって接収された。1952(昭和27)年にその一部解除が始まるが、本図はその経過状況を示す。赤色と緑色の部分は解除済みだが、昭和20年代末になっても桃色の部分は依然、接収中である。




(神奈川県管内)1万分1地形図「戸塚」1957(昭和32)年空中写真測量
神奈川県庁・横浜市役所発行。1954(昭和29)年から57(同32)年にかけて実施された写真測量をもとに、神奈川県と横浜市によって1万分1地形図が発行されている。本図はそのうちの一枚。1954(同29)年、横浜市は戦後の新しい3千分1地形図の作成に着手したが、その図郭は戦前の旧図のものとは異なり、この1万分1地形図の図郭を9分割したものに対応する。




「大横浜全図(中心部)」1963(昭和38)年頃
表題:『最新大横浜全図』(日本地図株式会社)。縮尺:1/12,300。
裏面は市域全図(1色刷)。高度経済成長のピークを迎えた頃の横浜の中心部。市電の線路が縦横に張リめぐらされ、伊勢佐木町にはデパートが並ぶ。桜木町から関内・根岸方面へ向かう国鉄根岸線はまだ工事中である。




「地番入横浜市街図・中心部」1964(昭和39)年頃
表題:『精密地番人横浜』(塔文社)。縮尺:1/17,000。
戦後、全国の都市地図や都道府県地図の出版を手がけるようになった大手地図会社の一つ。本図は横浜市域のうち鶴見区から磯子区までの臨海部のみを取り上げている。裏面に単色刷りで市域全図が小縮尺で掲載されている。




「横浜市区分図南区詳細図」1965(昭和40)年頃
表題:『横浜市区分地図南区~最新調査番地入』(国土開発図書・日本地図共販)。縮尺:1/15,500。
区域北部の町別に細かく色分けされた部分(旧吉田新田から大岡川沿いの地域)が戦前までに形成された市街地で、市電の路線絹が張リめぐらされ、後に市内で最初に地下鉄が開通する。中南部の広域(上大岡・永谷・野庭・日野・笹下地区など)が間もなく港南 区として分離される。


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